風来り、高鳴るものは、やまならし、あるいはポプラ、さとりのねがひ。   宮沢賢治



 僕にとって宮沢賢治は、かなりぶっ飛んでいるという印象がある。
 小説なども理解の範疇を超えているものが少なくない。図書館などに行くと、彼についての研究本が大量に並んでい
る。おそらく研究者にとって彼は、さぞ解き明かし甲斐のある作家なんだろう。
 僕は例のごとくささやかな知識しかない。宮沢賢治は日蓮を信奉した仏教者であり、菜食主義者であり、手淫をしな
かった人であり、童話なんぞを書きつつも、科学や宇宙について進んだ考えを持っていた、というそのくらいのイメージ
だ。
 そしてなんとなくロマンチストだと思う。こんなことを言ってしまうと、「いいや、宮沢賢治ほどの現実主義者はいない」
みたいな反論が来てしまいそうだけど、あくまで僕のイメージの話なので。
 というわけでのこの短歌である。この短歌は、僕にとっての宮沢賢治のイメージと見事に合致する。

 ちなみに「やまならし」とはハコヤナギのことであり、ハコヤナギとはポプラと同属の落葉高木なんだそうな。要するに
第3句と第4句はほとんど同じものなのである。まずここがすごい。この短歌を見ていろいろとイメージをする必要はな
い。僕らはただ、風に揺れて葉を擦り合う高木さえイメージすればそれでいいのである。
 その清廉とした感じ。
 歌の中に時間についての記述はないけれど、間違いなくこれは夜だろう。それも夜中だ。
 賢治はひとりで散歩をしていた。もしくは走っていたのかもしれない。なんのためかと言えば、性欲の処理のためであ
る。賢治は精力を体外に放出するのを嫌悪していたので、気持ちが高まるとよくそんなことをしていた……のだったと
思う。そんな記述を読んだ記憶はたしかにある。

 そのように考えれば、というかそのように考えなければ、結句のそれが効果を持たない。
 風が吹き、高木がざわめく。純粋なる自然の呼応。賢治はそれを見て、ひどく哀しくなったのだと思う。後ろめたくなっ
たのだと思う。
 ──ああ、このような純粋なものに対して、自分はなんと愚かな生き物だろうか。
 だから賢治はさとりを願わずにはいられない。本当に泣きたくなるくらい強く願っただろう。

 素直な歌で、とってもよいと思う。


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