ほのかなるものなりければをとめごはほほと笑ひてねむりたるらむ   斎藤茂吉



 この短歌を初めて目にしたとき、びっくりしたのを覚えている。
 内容の過激さにびっくりしたのだ。

 この短歌には、具体的な目的語が存在しない。「ほのかなるもの」と言っているが、一体それはなんなのか。
 おそらく《なにか》が《ほのかだったから》、《をとめご》は《ねむった》のである。しかしそれがよく分からない。
 きっとこれを解釈するには、作者の斎藤茂吉という人間について知る必要があるのだろう。だけど自堕落な僕はそん
なことはしなかった。勝手に意味を推測した。

 この短歌を解釈するにあたり重要なのは、少女の年齢をいくつと見るか、だろう。
 10歳未満の女の子ならば話は簡単だ。
 叙情などまだ持ち合わせないその女の子は、大人に混じって《なにか》の見物をしていたのだが、まるでそれの良さを
理解することなどできなかった。しかし負けず嫌いな彼女は、大人の真似をして「ほほ」とおしゃまに微笑んだりする。け
れどもそれのあまりの退屈さに、やはり眠ってしまう……というストーリーがすぐに頭に浮かぶ。
 この場合、《なにか》は《なんかしらの芸術》ということになるだろう。クラシック音楽とか。歌舞伎とか。
 それはそれでほんわかとした良い歌であると思う。

 しかし僕の場合、少女の年齢を10代半ばに取ってしまったから大変なのだ。
 なにしろ《をとめご》なんである。これってなんとなくやらしさを感じさせる語感じゃないか。
 僕は斎藤茂吉についてほとんど知らなくて、たしか母親についての歌が有名な人だったという程度の認識しかない。
だから僕の彼に対するイメージは、ひどく自由に跳梁した。

 斎藤茂吉は実は幼女性愛者だったのだろう。
 ある日彼はうら若き乙女と、そういうことをしようとする。しかしその乙女は、見た目はあくまで少女でありつつ、悪女で
あった。
 彼女は茂吉の《それ》を見るなり、《なんてほのかなのかしら》と嗤って、《ねむってしまう》のだ。
 だからこの歌は、自分の娘かそれよりももっと低い年齢の少女に自分の《恥部》をさらけ出したら、少女はその魅力
のなさにすっかりやる気が失せてしまって、何もしないまま先に寝られてしまったなあ、というものだと思ったのだ。

 きっと、というか確実に間違ってる。



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