ついに名乗り出なかった名探偵の話
ある朝いつものように登校すると、学校は普段と違う雰囲気に包まれていた。
校門付近にはパトカーをはじめとして、新聞社やテレビ局のロゴの入った車が何台も停められていた。上空にはいく
つかヘリコプターも飛んでいた。おそらくは車の面々と同業だろう。
つまりは学校でなんらかの出来事があったらしかった。
校門前に立つ教師に誘導されて、校内に入った。朝早くということで、まだ生徒の数は少ないようだ。この事態につい
て教師からはなんの説明もなく、ただ中庭で待つように指示された。早朝練習の生徒がグラウンドへ行くことも許されな かった。いったい何が起こったのか、生徒の間でやりとりされた情報は交錯していて、あまりよく分からなかった。
だが校庭のほうで何かがあったのはとりあえずたしからしい。それについて教師に何度たずねてもまともな返答はなく、
取材をされても何も答えるなとただいましめられるだけだった。
しばらくして、自宅でニュースを見てから登校してきた者が現われはじめた。ここで起こっている出来事なのに、彼ら
のほうがよほど事情に詳しかった。しかし彼らの伝えた内容はすさまじく不可解なものであったため、はじめのうちは真 実を言っているものか信じがたかった。
「校庭にね、机をたくさん使って『9』って文字が作られてるんだって」
時間が経つにつれて、事件の状況が徐々に明らかになってきた。
とはいうものの、先ほどのそれが全ての説明なのである。校舎に入ることが許されて、最上階の窓から校庭を眺めた
ら、なるほどたしかに巨大な『9』がそこにあった。
机を使って作られているので、『9』の色はこげ茶色である。校庭に入りきる最大限のそれに、果たしていくつの机が
使われているのだろう。少なくとも五十はあるように思えた。
それは異様な風景だった。なんだかそこには言い知れぬ力があるような気がした。窓の外に広がるめったに見られ
ないだろうその光景を、じっと見つめた。
しばらくして階段を降り、自分の教室に向かった。私の教室は一年三組で、一階にある。
引き戸を開ける。その瞬間に私は驚いた。教室に机がひとつもなかったからだ。
考えてみれば校庭に机がたくさんあるということは、どこかから机を持ってきたということであり、それが地上から最も
近い位置にある一年生の教室のものであるというのも、きわめて自然なことなのだった。
しかし理屈の上では解っても、自分の机があの『9』を作る一つとなったのだという事実は、どうしても複雑な感情を抱
かせた。昨日までは日常のシンボルでさえあったそれが、いきなり得体の知れない存在になってしまったのだ。それは なんだか不思議な気分だった。
ちなみに机が使われたのは隣の一年二組もであり、つまり校庭に持ち出された机の数はその二クラスの合計である
七十個ということであった。
とにかくこのままでは授業ができない。警察はひととおりの捜査が済んで既に帰っていたので、机を片付けるにあたっ
て問題はなかった。学校側は早々に机を元に戻すこととした。もちろんその役目は、机のそれぞれの持ち主以外にや る者がいるはずもない。私を含める七十人の生徒は、ぐちゃぐちゃに入り混じるそれの中からなんとか自分の机を探し 出し、そして教室まで運ぶこととなった。
教科書のたくさん入った重い机をひいこら運びながら、私は初めてようやく、こう思い至った。
だれがどうしてこんなことをしたのだろう。
言うまでもなく、このようなことをするにはすさまじい労力が必要である。しかも誰にも気付かれずに、一晩のうちにや
らなければならないのだ。それは相当に重労働だろう。
ましてや、そもそも学校というのは夜、何者かに忍び込まれぬよう、校門から教室のひとつひとつにまで、しっかりと施
錠されているのではなかったろうか。とりあえず校門は飛び越えることもできようが、教室の扉が開かない以上は肝心 の机が手に入らないこととなる。窓が割られていたなどという話はもちろんない。
つまりこれは密室状態の教室から机が持ち出されたということだ。
事件は犯人の正体から目的、そしてその手口まで、ますます謎が深まるばかりじゃないか。
だが、これは放課後、帰宅してニュースを見て知ったのだけれど、実は当日の夜は、宿直の者が情けなくも一晩中眠
り込んでしまっていたため、宿直室に行って鍵を盗んでくるのは、予想以上に容易なことだったらしいのである。鍵だけ に、文字どおり締まりのない話である。
とはいえ依然としてあとのふたつに関しては謎のままである。
なんだかそれはやけに私をわくわくさせた。あんなことを深い意味なくするはずがない。無関係な人間からすればまる
で意味をなさないあの行為が、関係のある誰かにとっては重大な意味を持つのだ。
それはなんだかとても羨ましくて、悔しかった。
一夜明けると、事件はニュース番組から姿を消していた。新しい展開がなければ伝えることがないわけで、当然のこ
とだった。世間からすればどうとでもない出来事に違いなかった。
しかし私の中では、事件についての興味はますます盛り上がってきていた。昨夜、頭の中では犯人についての数々
の憶測が浮かび、そして消えた。
実際のところ、与えられた材料はあまりに少なかった。私はほとんど結果的な事象しか知らないのだ。ここから答えを
特定できるなどとははじめから思っていない。ただ、とにかく『9』の意味などについて考えるのが純粋に楽しかったので ある。
そしてそれはやはり私以外の生徒にとっても同じようで、登校するとそこかしこでそれについて議論が交わされてい
た。各自が一晩かけて考えた解答はどれも聞いていておもしろかった。
素人推理を披露するのが、学校中のブームとなった。
「犯人はこの学校の生徒だよ。それも三年生だね。学校卒業を目前にして、なんか大きいことをやりたくなったんだろ。
それであんなことをしたんだ。まあ狙いとしては成功なんじゃないかな。大した被害もなく、強いて言えば勝手に机を使 われた一年生がちょっとだけ厭な思いをしたというくらいで、あんな騒ぎを起こせたんだから。あの動揺した教師たちの 顔を見ただろう? 愉快な顔だったじゃないか。教師たちに対して三年間で溜まったものを吐き出すには、十分すぎる ほどに十分だったはずさ。ああ、楽しかっただろうなあ! あんな作業を一晩のうちにやるとすれば、それなりの人数が 必要だ。考えてみろ、ある友情篤い集団が、三年間の鬱憤晴らしという名目のもと夜半に集まって、見つかったら少なく とも停学は免れないというスリルの中、それ自体まったくもって無意味な重労働に従事するんだ。なんと気持ちよさそう なことじゃあないか」
「あれは宇宙人からのメッセージだと思うの。ミステリーサークルみたいな。考えてみたらこのへんは住宅地ばっかり
で、アメリカでいうのコーン畑みたいな広大な場所ってあんまりないでしょう。だからきっと学校の校庭が使われたの ね。宇宙人の仕業だと考えると、あんなにたくさんの机を校庭まで持ち出したことにも説明がつくわ。人間がやったとし たら大変な労力だもの。宇宙人の進んだ文明の力を使えばあんなことは簡単なことなのね。話では宿直の先生が眠っ ている間に教室の鍵を盗まれて開けられたことになってるけど、私は違うと思う。きっとその先生はいちど宇宙人に捕ら えられ、手術をされた後に、記憶を捏造されたんだわ。だけど実際これはかなり珍しいケースよね。宇宙人が机でメッ セージを作ったんだもの。それもどう考えても数字の『9』としか思えない形に。『9』の意味についてはもちろん私は地球 人だからよく分からないけど、わざわざここまでするからには近いうちにこの地域に何かが起こるに違いないわ。もしか したらあれは宇宙人からの宣戦布告なのかもしれない。そう考えると私たちはとんでもないミスを犯したものね。NASA が到着する前に机を片付けさせてしまうのだもの。もっともそれもまた宇宙人による意識操作によるものなのかもしれ ないのだけれど」
「やはり僕は『9』という数字が重要なんだと思う。それの意味を知ることが、この事件の謎を解く鍵なんだよ。しかし実
際、9そのものをただ置かれたところで、その意味を求めることなんて不可能だ。そこから派生する言葉はいくらでもあ って、それを何かひとつに限定する根拠なんてものはないのだもの。タチの悪いダイイングメッセージと同じさ。あまりに も簡潔すぎて、何を伝えたいのかまるで解らない。もちろん解る人には解るのかもしれないけどね。それこそつまり、そ れで指し示される犯人なんかは。もしかして犯人は今ごろ、誰かがあの9の意味に気が付いてしまわないか恐々として いるかもしれないぜ。それで肝心の犯人の特定だが、とりあえず思いつくのは出席番号だね。単純なところで。この学 校で出席番号が9の生徒は、クラスの数だけだから十五人いるわけだ。それじゃあまだ数が多すぎるから、机を使わ れたクラスの生徒に限定してみようじゃないか。二クラスだから、出席番号9番は二人。意味深な数字だね。この二人 についてはなんかしら調べてみるべきじゃないかと僕は思うね」
「みんな、まんまと犯人の策略に嵌まっているよ。机の配置がなまじ数字の9だからって、そこに意味を求めるのはどう
かと思うな。もちろん偶然あの形になったと言いたいんじゃない。そうじゃなくて、犯人はわざとそこに意味深なものを置 いて、事件の謎について考えようとする人の思考を操ったんだな。つまりね、9にはなんの意味合いも含まれていない んだよ。犯人の目的は9を作ることではなかった。それよりも重要なのは、教室から机を持ち出すというその行為なん だ。犯人は教室から机を出さなければならなかった。でもそのことが追求されるとちょっと都合が悪い。だから校庭に出 した机をあんな配置にしたんだな。みんなの目をそちらに向けるために。それじゃあ、教室から机を持ち出すことの意 味とはなんだろう。教室に机がなかったことで変わったことといえば、机を使用された二クラスが、一時限目の授業を行 なえなかったということが挙げられる。机を運んできたり、掃除をしたりで大変だったらしいじゃないか。そこでその二ク ラスの当日の時間割、予定されていた授業内容を聞いてみた。そして解ったんだ。この事件の犯人は、机を持ち出さ れた三組の生徒だ。すなわち、三組の一時限目の数学で予定されていた小テストを先延ばしにするために、この事件 というのは引き起こされたんだ。そしてこの犯人はよほど用心深い性格なのか、他のクラスも巻き込んでカムフラージュ しようとしたのだね。結果的には、実際その三組の小テストは週明けに延期になったそうだし、成功というべきなんだろ うな。ま、そこまでするなら徹夜で勉強するべきだと僕は思うけどね」
「この学校には秘密があるんだよ。前から薄々は感じてたんだ。公立学校なんて結局は国の機関だものな。考えてみ
ればそういう目的で使われるには最適だよ。つまりこの学校というのは、国家レベルの機密事項を伝達する役割を持 っているんだ。コンピュータを使うと、どこかしらの優秀なハッカーが情報を盗んでしまうかもしれない。もちろん紙での やりとりなどもってのほかだ。暗号文にするという手もあるが、それにしたって解かれてしまう危険性は消えない。そうい うふうに考えると、あのような大胆なやり方ではあるけれど、案外ああしたほうが安全だと思えるのだね。だって、あん なのただの頭のおかしな人間が学校に忍び込んでやったと思うだけで、まさかあれが国家レベルの機密事項だとは思 わないだろう。もちろんあの『9』がどういう意味を持つのかなどというのは、ぼくら一般人には分かるはずがないのだけ どね」
「どうしてみんなそんなひねくれた考え方をするのかなあ。要するに犯人は深夜、学校に忍び込んだんだろ。夜中に忍
び込むって言ったら相場は決まってるだろ。泥棒だよ。それ以外に考えられないじゃないか。女の子の体操着がどれほ どの高値で買い取ってもらえるか知ってるかい? 教室には少女の黒いダイヤことブルマーがわんさか置かれている んだよ。これは相当なビジネスだよ。それならなんで机を外に出す必要があったのか、だって? 机を外に出した理由 は、ずばり体育の授業をつぶすためだ。一年二組の一時限目は体育で、ここですぐに体操着がないことが明らかにな ると、犯人は少し都合が悪かった。きっとすぐに事件の真相が発覚してしまうと、アリバイが用意できなかったりするん だろうね。ちなみに三組のほうは来週まで体育はない。そのようなわけで、あんなことをしたんだ。なかなか周到なやり 口だと思うね。こりゃあきっとプロだ。とりあえず来週になれば体操着がなくなっていることがわかるから、事件の本当 のはじまりはそれからだね」
「火事だよ。火事が起きたんだ。犯人が教室で何かしていて、火事が起きてしまったんだよ。だから犯人は急いで机を
外に持ち出したんだ。なにしろ机は木製だし、中は置きっぱなしの教科書で一杯だ。火がつくと非常に危険なのは言う までもない。それでね、火事場の馬鹿力っていうのかな、すさまじい勢いで運び出したんだね。もう無我夢中で、隣のク ラスの分まで。そのおかげで、火は燃え広がることなく絶えた。そのあとで、犯人は机を元に戻さなければならなかった んだ。教室で火を起こしていたことが明らかになると、犯人にとっては都合が悪かったはずだからね。だけどももう疲れ ていたし、さっきは緊急事態だからできたけれど、落ち着いて眺めてみるとあんな数の机を運ぶのなんて、とてもじゃな いが不可能だ。そういうわけで、校庭に出された机を、なんらかの意味があるように『9』の形にしてカムフラージュし、 そのまま帰宅したのだね。だから僕は、あのふたつのクラスの、一見まじめそうで煙草なんて吸わなそうな学級委員と かが怪しいと思うね」
奇想天外な推理の数々は、どれも独創的で、飽きさせなかった。
通常ミステリにおいては整合性というものが重視され、全ての事象がピースをはめるように説明されるものだが、推
理を披露する各人において、そのような使命感はつともないようだった。とにかく直感で犯人を断定し、ある者はそのま ま動機を掘り下げ、ある者は机についても話を広げた。彼らの推理は気負いがないという点できわめて自由で、つまり そこがよかったのだと思う。
よくミステリを読んでいると、作中で起こったありとあらゆることに理由付けがなされ、謎などひとつ残らず消化されて
しまう、というようなことがある。名探偵の冴えわたる推理にはたしかに魅了されるけれども、真相が明らかにならなか ったほうがよほどおもしろい気持でいられた、ということも少なくない。
ひとつの事象に対し、様々な想像を働かせる。話す人間によって同一であるそれはまるで違う意味合いを持ち、まる
で違う世界が展開されるのだ。その不確定さは快感だった。無限に連なるパラレルワールドを思い通りに行き来するよ うな、不思議な快感だった。
考えてみれば名探偵とは因果な仕事だと思う。事件の解決を依頼され、それ以上に被害を大きくしないために尽力す
る。頭の中で様々な可能性について考え、次第に真相に近付く。すべての謎が解けたら、その根拠を関係者一同に語 らなければならない。事件はそこで完結する。
だが完結を惜しむ声は小さくないだろう。
名探偵とは存在そのものがメタであり、アンフェアである。絶対的な力を使い、事件を強制的に終わらしてしまうから
だ。そこには隙間というものがなく、すなわち情感もない。名探偵がどんなに素養のある人間として描かれようと、彼の することは登場人物の誰よりも野暮だ。もしかしたら作中の登場人物の中には、名探偵以外にも真相に気がついてい るキャラクターはいるのかもしれない。ただ人に向かって話すのが名探偵だけだ、というだけで。
しかし現実にはそういった存在はまずいないし、いないことが幸運だと思った。
そのように考えていたから、事件から数日後、ひょんなことから真相に気がついてしまったときは、激しく動揺した。
その推理は我ながら完璧だった。あの事件の中の出来事について、余すところなく説明できた。
その解答が頭に浮かんだときの私の反応は、とにかく頭からこの考えを放り出したいと願うというものだった。しかし
それは私の頭の中にあったこの事件の鍵穴に、蝋を流し込んで形取りしたかのようあまりにもぴったりとはまってしまっ たため、とても抜くことなどできなかった。
そしてその真相というのは、大方の予想どおり、これまで人から聞いたどの推理よりも、はるかにつまらないものだっ
た。
名探偵にはなるまい、と思った。
人々の前でこれをきちんとした形で語れば、私は間違いなく名探偵になれるだろう。賞賛も得られるに違いない。けれ
ども、やはりこれを話してしまうのは罪悪であるように思えた。わざわざ他人の気持ちまでつまらなくする必要はないだ ろう。それはあまりにお節介というか、道連れの精神だと感じた。
真相を知らないクラスメイトたちは、依然としておもしろそうに推測を繰り返している。その真剣な表情や輝いた眼を見
ていると、あまりにも悔しくなって、しばしばすべてを話してしまおうという気持ちになった。それでも私は必死に自制し た。
名探偵にはなるまい。名探偵にはなるまい。
さすがにしばらくしたら、ブームも治まってきた。もはや大抵のパターンは語り尽くされてしまったということだろう。
こうなるとそろそろ真相を話してしまってもいいような気がするが、逆にもう誰ひとりとしてそんなものに関心を持ってい
ないように感じられ、やはり語るのははばかられた。まったくもって名探偵とは因果な仕事である。なんだかもったいな いことをしたような気さえ起こってきた。
しばらくして気が付いた。
事件において名探偵という存在がいないと、完結に締まりがなくなるという弊害が起こる。ピークはすぎたものの、事
件についての話はいつまでもくすぶるように続いた。
きっとこの事件における名探偵の役が、ほかでもない私だったのだ。真相は決して私だけしか気付けない種のもので
はなかったけれど、他のだれも気付いていない(はずだ)ということは、つまりはそういうことなんだろう。そして私はその 役を放棄してしまった。
真相が明らかにならなかったからだろう、あの事件について、神秘的な意味を求める者が増えてきた。伝聞を重ねる
たびに新たな要素を付け加え、バラエティに富んだ噂が密かに囁かれた。
「あれは異世界からのメッセージなのよ」
「机をああすると願い事がかなうんだってさ」
「あれって召喚魔法の儀式なんでしょ?」
「机は生きているの。私の耳にはその声が届くわ」
そしてある放課後、何人かの生徒が机を『9』の形にして校庭に出しているのが発見され、問題になった。
了
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